Sunday, April 17, 2011

ミュージカル「ビリー・エリオット」を見て



私は高校の時に初めて「ビリー・エリオット」という映画見て、それ以来ずっとその映画が大好きでした。「ビリー・エリオット」がブロードウェイでミュージカルの公演をしていることは知っていましたが、学校が忙しくて(そしてお金もなくて^^;)なかなか今まで見られませんでした。しかし先日、ついに見に行くことができました!



ビリー・エリオットは11歳のバレーが大好きな男の子です。その映画のストーリーは、どうしてもバレーがしたいビリーが、お父さんの反対や町のストライキ、金の問題など、いろいろな問題や試練を克服しながら夢をかなえるというものです。



ビリーと父の関係を見ていると、小さな時の私と父の関係、そして私の昔の夢を思い出しました。



昔、私は画家になりたいと思っていました。いや、特に画家というわけでもなく何か芸術系の仕事がしたいと思っていました。


でも、すごく保守的だった父は芸術をする人は勉強ができないという先入観を持っていて、私が美術をしたいといっても理解してくれなくて、とても反対していました。学校や大きな展覧会で賞をもらってきても、返す言葉は「おめでとう」じゃなくて、ただ「趣味だけにしておいて」の一言でした。



だからかな、ミュージカルの始めから、ずっと涙が出てしまいました。特に悲しい場面じゃなくて、誰も泣いてない場面でも私は最初から最後までずっと泣いてしまいました。


特に、ビリーがロイヤルバレー学校の審査員から、踊る時の気持ちについて質問された時の答えが今でも忘れられません。自分が消えてしまうような気分がするとビリーは答えます。それは私が絵を書く時に感じていてた気持ちとまったく同じでした。集中して、我を忘れて夢中になる、その気持ちが好きでした。



特に悲しくない場面でも私の目には涙があふれてきました。私はいろいろな問題や試練にあきらめたけど、いろいろな悪条件にも負けず、好きな事を精一杯に努力するビリーの姿はとても切なくて、輝いていました。

Friday, April 15, 2011

災害の後

一ヶ月の前、日本の東北部は、とても怖い地震と津波が起きて、見たことがなかった災害になった。たくさん人が災害でなくなって、もっと多くの人は、家を失って、驚き慌て他のところに避難した。後は、核が漏らすことで、今までも、大きく、国際的な問題になってしまった。海や、水や、食べ物や、土や、空気など、いろいろな大きい汚染られて、日本人ばかりじゃなくて、周囲の国の人々も生活に深刻な影響を与えた。その災害が突然で、大きすぎるから、日本の政府も、国際の援助者も、今いくら努力をしても、状態がずっと大変だ。ビデオを見ると、福島など災害が一番深刻なところは、今本当に「死城」になってしまった。一人もいなくて、ただ廃墟と災害で捨てたペットが見えて、その荒涼で、恐ろしい印象が私の心のなかで、深く残っています。

二年の前に、日本に行って、日本が私が見た限って、世界で一番美しい国の一つが言えるという印象がある。特に、私は日本海の近くに住んで、車で海の辺で運転すると、言えないほど美しさがいっぱいある。その時、海が一番美しく、静かなところだと思っていた。でも、今年の津波で、海がそんな怖くて、人命を丸飲みにした面を見て、驚かせた。とても短い間に、たくさんの人々がなくなった。信じられないても事実だ。過酷なことだろう。私たちは、災害の被害者じゃなくても、その災害を見て、生命の無常を経験して、自分の命がもっと大切にすることができると思う。そして、日本の被害者のために、できるだけ援助を与えることが皆の必要な責任だと思う。私は、災害の前に、国もなく、人種もなく、政治もなく、人類がいっしょに災害と闘争するようにすることを祈る。

その他、今最も大切な問題は、核は漏らすことだ。できるだけ影響を小さくなることにすることを期待している。日本人と周囲の国の人との生命の為に、むやみに海に核の廃棄物を捨てては行けない。他の国の援助者といっしょに、できるだけ安全にその核の問題を解決することは、世界の人々の祈りに違わない。困難がいくら恐ろしくても、日本人は孤独じゃなくて、私たちは、皆災害との「戦争」を参加して、勝つまで頑張ろう。

Thursday, April 14, 2011

眠れない夜

先週、引越しをした。

学期の真っ最中に引越ししなければならなかったので、じっくりと部屋探しはできずバタバタしながら適当なところに急いで移った。ちゃんと調べず引越ししたのが大きな問題になるとは引っ越す前は想像もできなかった。いくら急いで調べたとしても結構いいところを選んだからだ。

引越した初日の夜、私はまったく寝れなかった。アパートの一階にはレストランがあって、そのレストランはファンをなんと24時間回してて、残念ながらその大型のファンは私の部屋のすぐ下にあるそうだったのだ。一晩ずっと、そのファンからのうるさい消音で私は泣いてしまった。

おそらく、この音は普通の人には大丈夫かもしれない。でも、私は違う。小学生の時、大きい交通事故にあって、脳に大きいけがをしてしまった。事故の直後、けっこう長い間昏睡状態になってお医者さんがうちの親にお子さんは死ぬかもしれないので心の準備をしておいたほうがいいと言ったらしい。幸いに私は死ななかった。そのかわり、事故の後遺症として私は音にとても敏感になってしまった。一般の人には全然平気なほんとうに小さい音でも私は聞き取れて、私をいつも苦しませた。なので、いつも寝る時は私はよりもっと音に敏感になってしまう。私の韓国の家は二階立ての住宅で、私の部屋は二階にある。寝ようとしてベットに横わたると、一階からの母の足音から父のせきの音まであらゆる微細な音が私の耳に飛んでくるので、イヤホンーンなしではなかなか眠りにくい。

こんな私に、この新しい部屋は地獄のように感じられる。それで、このアパート中そのファンのないサイドのほうにまた移すことにした。五月のあたまに。ああ、期末試験の期間にまた引越ししなくてはいけないなんて!どうしてこんなややこしいことが私に起こるんだろう。悲しい。

Monday, April 4, 2011

外見至上主義社会


アジア(日本)において整形手術というのは顔面神経麻痺事故きな怪我をしたすためにけることだと知られていた。たまに女優が整形手術をすることもあった、このニュスが大衆られることはあまりなく、もしその女優して整形手術疑惑がでても、整形手術けたという否認していた。その理由は、最初に言及したように、整形しての認識美容目的にするよりも方法の一つとして考えられていたからだ。だから、美容目的にする整形手術する世論はあまり好意的ではなかったのだ。しかし、最近のインタネットの発達って芸能人卒業写真整形前写真がネットでたやすく一般人開されるようになった。その結果、もっと医学的なイメがあった整形手術芸能人変化にしてはもっと美容意味つようになったとわれる。この整形についての大衆認識変化とともに、整形手術は一般人を相手にする、とても大きなビジネスとなり、一般人の整形より人気が出てきた

今は年と性別に係なく、誰でもきれいになるために手安く整形手術ができる時代になってしまった。一体何のために、多くの人が自分の生まれつきの顔に足できず整形手術を受けるのだろうか。
 
実は、昔の東アジアの美の基準というのは現代のとはまったく違っていた。小さくて細い目、大きい顔、白い肌、小さい鼻と口が好まれていた。

しかし、19世紀後半から20世紀初めにかけて、西洋文明が東アジアに流れてくるようになってから、この美の基準は完全にわってしまった。その時の西洋文明というのは、それまで東アジアがまだ持ってない科技術がほとんどだったのだ。例えば、西洋文明は電車と車を含めた交通機や、銃、大砲といった達した武器を東アジアにもたらしたので、時の東洋人にとっては東洋の文明よりもっと優れてあかけたものだという認識がかった。だから、東洋人の目には西洋人はよりよい生活をしているように見えるようになり、彼らの美の基準が東洋人に適用されるようになった。おそらく、その時から東洋人は西洋人が求めていた美の基準、つまり、西洋人のような大きくて二重になっている目、高い鼻、小さい顔を東アジアの新しい「美」として追い求めることになってしまったのだろう。





 


 整形手術そのものや、その手術を受ける人がいとは思わない。もし、自分の顔のある部分が原因で長い間傷つけられてきた人が、療技術の力を借りてコンプレックスをなくすことができ、これから自信もって人生を生きられたら、それはとてもいいことだと思う。しかし、問題は、最近、整形がどんどん簡にできるようにになってきていることである。かつては本に辛い記憶などがあり、人にいたくない、精神的に傷ついている人のコンプレックスを直すために、行われていたことであった。もちろん、簡なことではなかった。そして、最終的に選ぶ方法が整形であったけれども、最近は少しのコンプレックスがあるだけで、整形すれば大丈夫だと簡に思う若者がえている。だが、整形することは個人の自由だから、特に整形したらいと思うわけではない。問題は、整形によってコンプレックスをなくした人が、今度は他の人をまた外見だけで評することが問題である。たとえば、私は整形した友達から「あなたの鼻は本にだめだ。整形しなくちゃ。」と言われたことがある。それは整形が普通にできることになったからだと思う。つまり、外見のコンプレックスによって傷つき、整形した人が、整形をしてきれいになったあとに,今度は他の人を外見で評する。そして、その人がまた傷ついたり、悔しくなったりして整形をする。そこに外見至上主義の循環がある。整形した人は、自分にかつてコンプレックスがあったという意味だから,自らの辛い経験を忘れず、他の人を外見で評するということはけるべきだ。
 
この問題をなくすために私達にできることは、は非常に簡である。人を外見だけて判しないことだ。外見よりは面の美しさを見るように努力すること。整形はとても個人的なことなので、自分のコンプレックスの改善としてするのはくない。ただ、みなそれぞれ人生にして違うを持っているので、いくら自分にとってコンプレックスであっても、他の人にとってはその人の長所かもしれないので、他の人の外見を勝手に評したり非難して傷付けてはいけないと思う。また、美の基準は時代によっていつもどんな形にもわりうることなにで、ただ周の目をにしすぎて、一人一人が持っている美しさ、すなわち「個性」をえてしまうのは自分自身にする冒なのではないかと思う。



Friday, March 25, 2011

裁判員制度について。。

裁判員制度には、場合によってよい時もよくない時もあると思う。一般の人々が裁判に参加して、 独裁的な裁判が行われるのを防止することは良い目的だと思う。例えば、韓国の場合は性犯罪の罰は理解できないくらい軽い。次のようなひどい性犯罪のニュースを見たことがある。子供を強姦した男が有罪となったが、たったの懲役2年の刑しか言い渡されなかったというのだ。被告が犯行に及ぶ前に飲酒をし、正常な考えができなかったために罰が軽くなったというのだが、それはどうしても理解できない。そのニュースを見た人々は、皆怒ってしまった。ニュースについての人々のコメントを読みながら、裁判員制度があれば、子供に対する性犯罪はもっと重い罰を受けるに違いない。このような場合には、裁判員制度があるべきだと思う。

一方で、やはり法律の知識をもっていない一般人に事件の判断を任せるのは問題があるようにも思う。性犯罪の問題に関しても、信じられないことに、例えば成人女性が短いスカートをはいていたり、男性を誘惑するような服を着ていたりすれば、その女の子は強姦されても弁明できないと考える人も存在する。反対に、そんなことは理不尽だと考える人も人もたくさんいるだろう。すると、いつも裁判員制度が正しい答えを導き出せるわけではないことになる。

結論を言うと、私は裁判員制度に反対だ。もちろん裁判員制度があったらいろいろな人々が意見を出すからもっと欠陥的な結果がでるかもしれない。だが、法律の知識も、法律的に判断する訓練も与えられなかった一般の人に、判決に関わる意見を聞くことは、リスクの方が大きいと考えるからである。

Wednesday, March 23, 2011

裁判員制度

韓国には裁判員制度というのはない。それで、「裁判員制度」に疎い私にとってこの制度の導入の賛否をどうやって判断するのかは正直いってよくわからない。

だが、法の素人の一般人が重大な判決に影響を与えられるという事実には反対だ。法律の専門家でも誤って間違った判断をする時がある。そうすると、その犯罪を犯してないのにその判断ミスで冤罪をこうむられる人が出てくる。まして、法の素人の裁判員はこのような過ちを犯す可能性が法の専門家に比べてもっと高いのは当たり前のことだ。たとえば、法の素人である裁判員達がある事件について専門的な視点で見るのではなく抽象的な観点でその事件を解釈して満場一致でその被告の死刑を主張して、それが受け入れられて裁判長がその被告に死刑を言い渡すとする。でも、実際にはその被告には何の罪もない。この場合には多数の素人達が一人の人生をめちゃくちゃにたうえ、無罪の一人の人間の命を奪ってしまったことになる。するとしたら、その間違った判決による残酷な結果の責任は一体誰に問われるのだろう。法について何も知らない一般人?素人の意見を受け取った裁判長?うまく被告を守れなかった弁護士?裁判員制度を導入した人?これは切りのない質問である。自分の分野でないことで誤った裁判員を責められないことは確かだ。

裁判というのは単純に黒白を明らかにするのではなく、いくら被告が犯罪を犯したとしても一人の人生と命がかかったとても重大な問題だから人が人を裁く時は相当な責任感と良識が必要である。だから、必ず経験と法について知識の豊富な専門家が犯罪の真偽を確かめて量刑を決めるのは当たり前で、一般人は裁判の判決について関わってはいけないと思う。

Tuesday, March 22, 2011

裁判員制度について

私にとっては、そんな風に「裁判員制度」の導入はいい点がもちろんあるけど、もっと多くの問題が起きさせるから、反対だ。

法律は、ある国家とその中で住んでいる人の安全と利益を守るために作ることだから、人の感じによってかわるはずじゃなくて、強引に実行することだ。人々は、自分は法律の権利があるのを感じて、社会の公正を守る力があるのも感じするのは、必要だ。けれども、民主化はもちろん悪いことじゃないけど、実は、主に理想的なことだ。強調しすぎると、社会の秩序が乱れになって、かえって民衆の利益に悪い影響になっている。例えば、一般的な人が法律のルールがあまりわからないのに、裁判員になって、被告の罰と具体的な刑を決める仕事をもって、問題だ。そして、専業の法律の訓練をあまり受けなくて、だいだい自分の感じと偏見によって、不公正な判決をする機会が多いと思う。その以外、もしあまり重罪じゃなかったら、例えば、窃盗と交通について犯罪だったら、裁判員は判決することが大丈夫かもしれないけど、死刑に至っては、言い渡すことは、専業の裁判長にもとても大きいストレスがある、まして裁判員がその経験が少ないから、 とてもできないのは、想像できる。

それにとって、一般的な人が法律の実行に参加するという考え方がいい点があるの同時に、私たちは、その参加の程度と方法をもっとまじめに考えなければならない。例えば、その有罪無罪の決めることは、裁判員が参加するのはいいかもしれないけど、その量刑のことは、専業の人が処理するのは、もっと合理だと思っている。

つまり、「裁判員制度」の導入は、いい影響も悪い効果もあるから、簡単に賛否することはできないけど、一般的な人が裁判員になる条件が未熟の時、急にその制度を全面的に実行すると、大きい問題になってしまったのに違いないと思う。だから、私は反論を持つ。